暗黒星雲

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2007年 12月 29日

短歌のモード

穂村弘「短歌の友人」(河出書房新社)を読んだ。そのなかの「モードの多様化について」という項がとても面白かった。

簡単に要約はできないが、次のような論である。熊の出てくる歌が例としてあげられ、特に注釈などなくてもその熊は現実の熊ではなくぬいぐるみやアニメの熊だということを読者は察知できる。このように短歌の前提として、例えばアニメモードで詠われた歌、現実モードで詠われた歌などがあるということ、そして読者はそれがどのようなモードで詠われたものなのかを察知できるというもの。

この論を読んで思い出したのが、塔短歌会の2007年10月のe歌会での経験である。「光」という題が出され、私は次の歌を提出した。

迷彩の服と防弾チョッキ買い光る砂漠へ少女を狩りに

一点も入らず不評な歌だった。この歌の出来不出来のことは別にして、このe歌会で私が興味を持ったのは次の点である。今から思えば、穂村さんのいう「短歌のモード」の問題のように思う。

私が興味を持ったのは、この歌に同情的な意見も含め、少なくともコメントを書いて頂いた人は全て、この歌の「砂漠」を、現実の日本の都会のメタファーと解釈されたのである。「東京砂漠」という歌謡曲の場合のように。

作者である私は、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争、パレスチナ戦争などを踏まえ、中東のどこかの砂漠のつもりで詠んだのである。力があればどんな理不尽なことでも出来るなんでもありのこの世界だから「少女を狩りに」行くことだってありだろうと思って詠んだのだ。もちろん現実に<私>が砂漠へ少女を狩りに行くことなどあり得ないことであり、幻想あるいは物語としての歌なのであるが、e歌会の読者は、そのようには捉えず、この歌は現実を詠った歌であり、「砂漠」を都会のメタファー表現と捉えたのである。砂漠へ行くことと同じ程度に〈私〉が迷彩服と防弾チョッキを着けて現実の都会に少女を狩りに行くことはあり得ないことなのであるが、迷彩服を着て銃を乱射する事件が日本でも現に起こるのであるから、あり得ないことではなくて現実味のあることと解釈されても無理のないことなのであろう。

この歌について、作者の意図と読者の読みに食い違いが生じてしまったのは、私の作歌技術の問題であるが、穂村さんの言う「短歌のモード」の違いとして解釈すれば、作者が幻想モードで詠んだのに対して、読者は現実モードで読んだということなのだろうと納得したのである。
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by araimitsu | 2007-12-29 20:38
2007年 12月 13日

9月投稿→12月掲載 池本一郎選

057.gif調律を拒むピアノを弾くきみの心に鬼は乗りにけるかも
058.gif鳴り止まぬ耳鳴りのなかチチチチと虫の音聞ゆ秋来ぬらしも
057.gif薄皮を剥がしてみれば微笑みの形にゆがむ唇と頬
058.gif高圧の送電線の鉄塔が傾ぐ真昼に飛ぶ揚羽蝶
058.gif地図のない旅をしている俺たちの地平に白く光る稲妻
057.gif油蝉の屍庭先に仰向けり遥かなる恒星に焼かれて
057.gif羊水の淡い光に包まれてインターナショナル父の歌聞く
057.gifネットカフェで仮構に一人遊ぶ夜に夕餉調え妹待つらむぞ
057.gif検尿の白いコップを手渡して白衣の下に汗疹吹き出す
058.gif工事中の狭い通路を整然と東京駅の通勤者の群れ
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by araimitsu | 2007-12-13 23:02 |